なにかが見えてくる
おじさんの戯言 (たわごと)
祈り

 先日一人でハイキングに出かけた。代休の日で平日だったので、娘は学校、妻は他の用事があり、おじさんは一人で出かけることにした。久しぶりに、中山寺から中山奥の院を通って清荒神清澄寺まで歩くことにした。家族向きの8kmのコースで、短くもなく長くもなく、ちょうどいいハイキングだった。スタート地点で中山寺にお参りをし、中間地点の奥の院で手を合わせ、さらにはゴール地点で清荒神清澄寺のお参りで締めくくるという、身も心も清らかになるハイキングであった。さらにもう一つ、おじさんにとって大きな収穫があった。それは、中間地点の中山奥の院でのこと、手を合わせてから休憩をしていると、何枚かの張り紙に気がついた。この場を借りて、それらを順に紹介したいと思う。
 まず、「祈り」と題された張り紙を紹介する。

  「祈り」
 私たちは自然の中で生かされている。この自然とは、自然の理(ことわり)である。父と母の縁をもってこの世に生を受け、自然の理の中で育ち、生活し、年齢を重ね、穏やかな生命の循環の中で、また自然の中へ帰ってゆくその中で、多くの障害や災害や事故や病に出会い、その志半ばで逝くこともある。悲しく辛く重いことであるが、それでも生き残ったものはその自然の意の中で生きてゆく。むなしく空虚であったとしても、その傍らには常に如来や菩薩や明王がおられる。自然の理の中で迷い、弱気になった私たちをお救い下さるのであります。神も仏もあるものかと思う前に、神や仏を感じなければなりません。まずは自分の心の中に仏心があるか、慈悲の心があるか、他を思い、何かをなそうとする心があるならば、そこにはすでに菩薩がおられます。
 まずは祈りましょう。他の人のために、そして自分のために。

 次に、「仏性(ぶっしょう)」と題されたものである。

  「仏性(ぶっしょう)」
 仏とは智恵と慈悲のかたまりで、その量は無限であります。生きる勇気や気力、生活する方法、病や死を迎えた時の慈悲や救い、人が欲するすべてのことを受けとめ、それが正しいか良くないかを教える智恵を授けられる教師であります。それを具体的に表現したものが仏像であります。私たち未熟な人間は、そうした具体的な形や物に対して信(おもい)を仰(む)けることで、種々の解決を得ることが出来ます。そして、それが深まり、修行が高まると、具体的なものが無くとも、仏を観じ、心に知ることが出来るようになります。やがては、自分や他人にも仏がいることを感ぜられるようになります。それを仏性といいます。
 青葉の中に仏を見られます様に。

 そして、「ご先祖様を大切に」と題されたものを紹介する。

  「ご先祖様を大切に」
家庭の中心は 先祖で有ります
私達は現在 生きていると 思う時
私達は祖先・父母を忘れることは出来ません
先祖なくしては 誰も存在しません
 根なくして 大樹は育ちません
 根が枯れては 幹も太らず
 枝葉は茂らず 春が来ても
 美しい花を 見ることは出来ません
腐朽すると どんなに勃然と繁り亭々と
そびえる大樹も 忽ちに枯れるのであります
根の延長が幹となり 枝葉となる如く
祖先の根の延長が 現に生きる父母の幹となり
その子の枝葉となるのである
 地下に深く広く根が張って
 大樹を巌然と支へ そびえさせるように
 私達の祖先も 久遠の昔より
 永劫の未来へかけて 大慈愛の根を張って
 子孫を支えて下さるのです
家庭を朗らかに和やかにしようと思えば
現在 生きている事に感謝し それを自省して
 佛様の御力添えと
  祖先のお陰を思い 一心にお祈りし
   供養を致しましょう
          合  掌

 これらは我々が毎日の生活を送る中で、常に心に置いておきたいことである。常にこのようなことを忘れず、意識して、考えながら毎日を送りたいものだ。そうすれば、心の平安がきっと得られると思う。一人ひとりの心の平安が得られると、それがきっと社会全体の平安に繋がっていくと思う。そういう社会になれば、とおじさんは思うのだ。
(2011)


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